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沼崎一郎(2019) 「諸文化の相対性から人類学の相対性へ」

沼崎一郎

2019 「諸文化の相対性から人類学の相対性へ――クリフォード・ギアツとデイヴィッド・シュナイダーに見る「新・文化相対主義」」『東北大学文学研究科研究年報』68: 226-192.

 

概要:

パーソンズの弟子であったクリフォード・ギアツとデイヴィッド・シュナイダーの文化観を比較しつつ、前者は民族誌の相対化を、後者は親族研究の相対化をもたらしたと論じ、「ライティングカルチャー・ショック」および現在の人間そのものの相対化という流れのある種の前哨と捉える。

 

コメント:

ギアツとシュナイダーがどうパーソンズ的文化観を脱したのかを比較するという点でたいへん興味深く勉強になった。ただギアツの分析に比べてシュナイダーの分析が明らかに少なく、少々バランスが悪い。また相対性という言葉が、対象の併置(e.g. 諸文化の相対性)とオルタナティヴの可能性(e.g. 人類学の相対性)という二つの意味で混在して使われいるような気はする。

 

ざっくりレジュメ:

はじめに(226-224)

タルコット・パーソンズの文化観と人類学の位置づけ(224-220)

パーソンズは行為の枠組みとして、社会システム、人格システム、文化システムの三つを区分し、それぞれ社会学、心理学、人類学の研究対象だとした。パーソンズによれば、文化はコミュニケーションを可能にする共通の記号ないし象徴の抽出可能/転移可能なパターンであるとした。パーソンズ自身は、ギアツとシュナイダーがこの線に沿って文化研究を発展させたと見る

 

Ⅱ クリフォード・ギアツの文化観と民族誌の相対化

Ⅱ-1. 「文化システムとしての宗教」における文化概念(220-215)

 60年代のギアツパーソンズの文化観を継承していたが、行動の仕方そのものではなく、「象徴的形態に表出された、継承された概念のシステム」が伝達されると捉えるところに独自性があった。この頃のギアツにとって文化とは、「社会的に構築された現実の解釈図として、また現実を社会的に構築するための設計図として機能する象徴の体系」であった。

 

Ⅱ-2. 「深い遊び」から「厚みのある記述」へ(214-206)

ただし72年の「ディーププレイ」や73年の「厚い記述」以降はパーソンズ的文化観に疑義が呈される。バリの闘鶏は経済的な意味でパーソンズ的な社会機能は果たしておらず、機能があるとすれば解釈的なもの、バリ人が自らの経験を自らに向けて語ったものであり、人類学の仕事はそれを読み解くことだとギアツは言う。壮大な文化体系のようなものはなく、その行為を通して何が言われているのか、その意味を「解き当てる」ことこそ文化分析である。

 

意味が見いだされるのは「まさに生起しつつある生のパターン」においてであって、いかなる内的な関係性すなわち「意味の大陸」からではないと、ギアツは言うのである(209)

 

 行為の中に現れる意味を読み取ることが民族誌であり、そのために必要なのが「厚い記述」だとギアツは言う。(このあたりは、文脈/行為の中に存在が現れるとする近年の人類学の話と共鳴している)。解釈人類学は「もっとも深遠な諸問題」への普遍的な回答を提供するのではなく、異なる文化に生きる人々が出した我々とは異なる回答を見出し、それを参照可能な諸文化の記録に付け加えることである

 

Ⅱ-3. 文化概念の脱パーソンズ化と民族誌の相対化(206-203)

ギアツパーソンズの相違点。①文化の体系性についての見解。ギアツは文化の体系性を強調しなくなり、むしろ体系性に警鐘を鳴らす。②文化と行為の関係に関する見解。文化を社会行為に外在的な意味の体系としてではなく、社会行為を通して表明されるディスコースを理解するためのコンテキストと捉える。パーソンズは外在的な文化システムの客観的記述を人類学に期待していた一方、ギアツはそれをネイティブの解釈についての人類学者の再解釈へと転換させた。したがって読者によるギアツの読みも再々解釈なのであり、民族誌は読み手に応じた相対的なものとなる。

 

Ⅲ デイヴィッド・シュナイダーの文化観と親族研究の相対化

Ⅲ-1. 「アメリカの親族」における文化概念(203-201)

シュナイダーもまた『アメリカの親族』ではパーソンズの文化システム論に忠実であった。親族の単位とその構成ルールを分析するシュナイダーにとって、行動のパターンそのものは文化でなく、文化とは諸単位と諸規則の定義の体系であった。

 

Ⅲ-2. シュナイダーのギアツ批判(201-200)

ギアツが文化の体系性と外在性を否定したのに対し、シュナイダーは前者に対して、文化システムもL-Sの神話のように体系的な差異のシステムだと批判し、後者に対してはコンテキストから意味のシステムを取り出すことは可能だと批判した

 

Ⅲ-3. 『親族研究の一批判』における親族研究の相対化

P200-197: だが1984年の『親族研究の一批判』では、シュナイダーは『アメリカの親族』を自己批判する。結局のところ欧米的な血のイデオロギーが普遍的な「自然」として前提されていたということが指摘される。人類学者もまた自文化の非拘束性を免れておらず、親族をはじめこれまで普遍的とされてきた研究枠組みは全て問い直されるべきと指摘する。

 

おわりに(197-195)

ギアツとシュナイダーの「新・文化相対主義」の新しさ二点。①文化の概念をパーソンズ的な漠然とした「生の流儀」から「象徴と意味の体系」に限定し、その相対性を前提、つまりローカル・ノレッジの理解とした点。②「生の流儀」の多様性と対等性という意味での諸文化の相対性を称揚する文化相対主義ではなく、人類学者自身の文化非拘束性を前提したうえで、人類学的営為そのものを相対化した点。ただしギアツもシュナイダーも権力性への批判が弱く、80年代の「文化を書く論争」で先鋭化。さらに現在は、人間そのものの相対化も進んでいる。